【医師のキャリア/転職】教授選に出馬することで得られた経験【訪問診療】
関連民間病院へ出向し、外科部門の責任者として臨床のことから外科に関する経営的なこと、さらには医療マネジメントまでも学んだのち、再び筑波大学の講師に戻った時は43歳でした。
再度、大腸疾患の責任者として臨床に力を入れ始めましたが、約1年後には教授選が始まりました。
いろいろ考えましたが、わたしもこの教授選に応募することにしました。
決断の背景には、「いつかは教授になりたい」という個人的な思いのほか、教授に選ばれる人の年齢層が低下しつつあり、臨床系の教授でも40代で選ばれることが珍しくなくなっていたこと、もしこの教授選を逃したら次の筑波大学の教授選のときにはおそらく年齢が高くなり過ぎて立候補できなくなってしまうことなどがありました。
不利な状況から始まった教授選
それにしても、関連病院から戻ってわずか1年後からの教授選は、わたしにとっては厳しいものでした。それまでほぼ2年から4年ごとに所属が変わったために、基礎にしろ臨床にしろ、研究成果の蓄積がほとんどできなかったのです。
状況をさらに悪化させたのが、筑波大学はいわゆる医局制度でなかったために、医局の構成員あげて何かの研究をする仕組みが出来上がっていなかったことです。
ですから、実験も臨床データのまとめも自分自身で行うか、個人的に頼んだ若手医師とともに行うしかなかったのです。
言い訳ばかりしてしまいましたが、結果として、論文の数と質がとても足りない状況でした。
最後の悪あがきとして、それまでの筑波大学消化器外科グループの臨床データやわたし自身が術者か前立になって行った手術データを解析したところ、興味深い結果がいくつか得られたので、約3か月でデータを整理し、その後の3か月で英語論文を3編ほど書いたのがいい思い出です。
教授選で提出する論文一覧には、いわゆるアクセプト(掲載許可)されている状況までの論文しかのせられなかったので、投稿からアクセプトまでの期間が短い雑誌、アクセプトされやすい雑誌を選んで投稿したことも記憶に残っています。
現在では普通に行われる、インターネットを通しての論文投稿、査読結果の通知などは、ごく一部の雑誌でしか行われていませんでしたが、スピードを必要としていたその頃のわたしには、その仕組みを利用できたことがとてもありがたく感じました。
前段でご紹介したように、半年間でとにかく集中して論文を書きまくりましたが、残念ながら足りなかったようです。
選考委員の中に、医師になったころからの知り合いの方がいたので、その教授選の最中に挨拶をしに行きましたが、その場で「野末君、あんなに論文の数が少ないとは思わなかったよ」とはっきりと言われてしまいました。
その方は、教授になろうと決めてから、毎日朝3時に起きて、論文を継続的に書いていたそうです。合計で100編以上になったとか。わたしの論文数とは雲泥の差でした。
教授選中に流れた事実無根の噂
わたしの知る限りでは、筑波大学の教授選が情実で決まることはありません。
ところが、この教授選の最中に、流された噂には、本当に驚きました。
それは全くの事実無根なのですが、「火のないところに煙はたたず」という言葉があるように、一度噂が流されると、多くの方は信じてしまうようなのです。
その噂とは、出向した関連病院の駐車場で、わたしが職員と不適切な関係を持ち院長からこっぴどく怒られたというものでした。
かわいがっていた後輩が「野末先生、こんな噂が流れていますよ。
そんなことはないと思いますが、思い切って先生に直接聞いてみようと思って…」
と尋ねてくれたのです。
噂が流れ始めて既に数か月たっていたようなのですが、それまで全くわたしの耳には入りませんでした。
「そんなことをするはずないじゃないか」と即座に答えましたが、それでもその後輩ですら噂を少し信じそうになっているようでした。
その時に、あるものを思い出しました。
実はその病院を退職するときに、それまでの貢献への感謝の意を込めて、院長から表彰の盾と副賞の旅行券をいただいていたのです。
その表彰盾を後輩に見せて、やっと、そのようなことは全くなかったということを納得してもらったのでした。
わずか2年間の勤務で、表彰され、しかも盾を授与されるということはふつうあり得ないことなので、その意味を後輩もわかってくれたようでした。
この経験を通して、「火のないところに煙がたつ」ということもあるのだと、教授選の恐ろしい側面もよくわかりました。
「火のないところに煙がたつ教授選に出てみませんか?」への私的結論
教授になりたいと少しでも思っている人は、論文を書き続けることが必要。
どんな落とし穴が待っているかわからないので、慎重な行動と、あらゆる場面での貢献を心がけましょう。